「表現の自由」とは言うが、何からの自由か?
このところ、「表現の自由」という言葉が一人歩きしている。
表現の自由とは、もちろん憲法で保障された権利である。
しかし、「表現の自由」には、憲法解釈上、種類があることは案外と知られていない。
憲法解釈上、「定番」とされている芦部憲法では、この点について、以下のように書かれている。
表現の自由の規制立法は、①検閲・事前抑制、②漠然不明瞭または角に広汎な規制、③表現内容規制、という四つの態様に大別される。
(略)
表現の内容規制とは、ある表現をそれが伝達するメッセージを理由に制限する規制を言う。性表現・名誉毀損表現の規制もこれに属するが、これはアメリカでは通常、営利的言論や憎悪的表現とともに、低い価値の表現と考えられ、政治的表現と区別される。
つまり、公権力による介入からの自由が最も優先されると解釈される。
最もわかりやすい例は、「あいちトリエンナーレ」事件だろう。公的に決められた補助金の給付中止。これは公権力による圧力に他ならない。最も許されない行為だったと言える。
そして政治への不満に対するデモ。これは事前に了解さえ取っていれば公権力に介入される言われはまるでない。国家前でのシュプレヒコールなどは本件に該当する。
そして、表現の内容規制となると、特定の人々に対する嫌がらせ行為、つまりヘイトスピーチや性的に不快な表現が相当する。
これらはやはり、その表現によって名誉を毀損されたり、プライドを傷つけられるといった被害者が存在する場合には、かなり「黒」だと判断せざるを得ない。
表現の自由とは、
公権力からの自由
が最大の優先順位にある。そして、
表現によって被害者が存在する場合
も、他者に対する人権侵害なので、これはあまりやらない方が良い、というか、「するな!」と言い切ってしまっても過言ではない。
人に対する非難でも、相手が公人であるのか、私人であるのかで違う。
「アベシンゾウは木星から来たジュピターゴーストです」
という表現は、公人による決定が大規模な範囲で影響を受けるので、これが許容範囲である。
これが、
「特定民族には特権がある」
という表現になると、事実ではないうえに、自分たちの生活にはまるで関係無いので、ヘイトスピーチであるとされている。
この違いは特に重要である。
特定民族への差別、性的差別は、「表現の自由」の中ではプライオリティの低い事例にはなるのだが、「被害者が存在する」という点で決して軽んじて良い問題ではない。
では、政権に対して異議を唱える行為は一般にどう称するのだろうか? これは「リコール要求」とか、「クレーム」と言う。今では「クレーマー」とも称されるが、その請求に正当な理由があれば、クレームを付ける権利はある。
そして、その「クレーム」を聞き入れるのか、突っぱねるのかは、クレームを付けられた側の判断による。
「あいちトリエンナーレ」では木村愛知県知事が、名古屋市や国からの嫌がらせ行為を突っぱねた。これは正当な行為である。
では、高輪ゲートウェイのAI、渋谷さくらに対するクレームは正当なのだろうか? これは各自の判断によるが、性差別的な扱いであり、システムとしての総合デザインとしてかなりイビツなものであると判断せざるを得ない。
したがって、そのような点に対して抗議する権利は存在する。もし、JRの側が「これで問題ない」と主張するのであれば、突っぱねるのも各企業の判断に任されることになるので、「本当に何の問題もない」と考えているのであれば、変更をする必要は無かったのである。
では、改めて問いたい。宇崎ちゃん、千歌ちゃん、渋谷さくらに対する「クレーム」は数の力に物を言わせた圧力だったのだろうか? 日本赤十字にも、JAにもJRにも、その「クレーム」を拒否する権利はもちろんあったはずである。では、なぜに変えたのか? その理由は?
安倍政権の悪政に対して抗議をしても、政権はまるで聞く耳を持っていない。国会議員は国民による投票で選ばれるので、次の選挙で落選させるという手段も残されている。したがって、国会議員によって職業を続けられるかどうか、その手綱を握られているわけである。
しかし、今のところ行政はそれを聞き入れる気は無い。もちろん、それも「国会議員の勝手」である。
さて、それでは、特定の民族への差別表現に対する抗議、性差別的表現に対する抗議は、極めて不当なものなのだろうか? 不当なのだとすれば、なぜそれを聞き入れる必要があるのか、必要な無いのであれば無視することも可能なのである。
大村愛知県知事の抵抗が賞賛され、性差別的表現に対して抵抗しなかった側が「クレームのよって潰された」というのは二重規範ではないのか?
テレビ放送における田崎四郎の出演や、明らかに偏向しているNHKの岩田明子に対する抗議もかなりの数になっていると思われる。しかし、放送局はその抗議を無視している。その結果として何が起こってもかまわないと放送局が判断しているからである。「抗議を聞く、聞かない」は抗議された側の判断によるものである。これだけははっきりさせておきたい。
抗議が圧力になるかどうか、それは知らない。ただ、抗議するのは各自の判断でしか無く、抗議をした人を非難するのは明らかに筋が違う。
最近、特に強くそう思う。