有害な男らしさって何だろう?

書評 太田啓子「これからの男の子たちへ: 「男らしさ」から自由になるためのレッスン」

 本書は「宇崎ちゃん問題」を日本語で紹介しただけで炎上した被害者である太田啓子氏の子育てエッセイ&「有害な男らしさ」論である。
 著者は弁護士であり、二人の息子の母親である。フェミニズムが専門では無いが、日常の中で母親として垣間見える息子の言動に対して教え諭したいこと、息子がどうして「有害な男らしさ」に染まってしまうのかといった視点で語られている。
 日本国憲法によれば、本来なら権力構造があってはならないのが建前である。しかし、パワハラで自殺が起こったり、セクシャルハラスメントが横行している。
 それはなぜだろうか?
 ここで言う権力とは、会社や役所などの組織では、円滑な作業を進めるためにピラミッド型の組織を作っている。管理職は部下に適切に仕事を割り振り、結果を評価し、取りまとめるのが役目である。そこでなにゆえに過労死自殺が起こってしまうのか?
 要するに一人では処理しきれない作業量を割り振ってしまい、その進捗を管理し切れていないだけの話にすぎない。
 それは全部管理者の責任なのだが、会社の上下関係を勘違いすることによって部下を脅かしたり、強制する権利を持っていると思い込んでしまうためだ。
 セクシャルハラスメントもどうだろう。男性のほうが力も強く、身体も大きい。そこで実社会においては男性が女性を軽く見ている部分が確かにある。
 したがって、痴漢などの犯罪が平気で起きてしまうわけである。酷い例では地下鉄のホームで、監視カメラに写らない場所で強姦事件が起きたという事件もあった。
 そんな男性側の女性蔑視はなぜに起こるのだろうか?
 それが本書で語られる「有害な男らしさ」である。スクールカーストは成績や運動のできなどに関わりなく、声の大きな人物が支配することになる。
 そして閉じたホモソーシャルの中でマウントの取り合いが起こり、負けたら奴隷という運命が待っている。
 さらには社会文化の中に間違った性知識が蔓延し、女にモテないのは不公平だという意味のわからない意識が起こる。それは単に自分のせいでしかないのだが、モテれば勝ち、ヤレれば勝ちという単純すぎる思考に洗脳された結果でしか無い。
 そこに女性の主体は関係無い。誰であってもモテれば良い、やった数だけが勲章になってしまうのだ。
 今では少なくなったが、まだまだ女性を鑑賞物として見る、自分の隣にいさせて勲章にするといった意識が残っているのは事実である。
 しかし、実際には何歳で童貞であろうと処女であろうと、個人の問題であるし、勝手な話である。だが、「なんでオレだけがいつまでも……」という意識を発生させてしまうから問題なのである。
 私はパートナーをルックスで選んだことは無い。これは誓って言える。自分と違うところがあって、それが魅力的であれば、それで十分に人として尊敬できる。しかし、それは残念ながら少数派らしい。
 筆者も、息子達が見ているアニメや学校で覚えてくることに疑問を持ち、熟考し、「有害な男らしさ」から守る教育を続けている。
 時に、アンチフェミニストからは目の敵にされ、実際のAmazonレビューも、「どう考えても読んでいないだろ!」という連中による低評価で埋まっている。これが現実なのである。
 そんな社会が健全な発展を遂げられるわけがない。いまこそ、社会の中にしみついた「有害な男らしさ」を消し去るべき時ではないのだろうか。