謎の「SFプロトタイピング」
結論:まったくわかんない(^^;;;;;;;;
SFの持つ未来を想像する力、物語を作る力を使ったコンサルティング技法として今注目されているのがSFプロトタイピング、SF作家に自社の技術を使って未来を描く小説を委嘱し、そのイメージからフィードバックを得る試みです。企業にとっては小説を読むことで具体的な未来像が見えて、その先の一歩を踏み出す原動力となる。
「SFプロトタイピング」と「文学・文芸としてのSF」は全然別物ですから、同一線上で語ること自体がナンセンスです
ーー名状しがたき自称SF作家
SFを具体的な未来像や先進的なアイデアを提案するだけのものにしてしまえば、それが実現した瞬間に陳腐化して使い捨てられるだけです。
本当にSFをそんな使い捨ての道具にしたいんでしょうか。あるいは過去のSF作品はそんなふうに使い捨てられてきたのでしょうか。
ーー長澤唯史先生
真面目な話、SFを具体的な未来像や先進的なアイデアを提案するだけのものにしてしまえば、それが実現した瞬間に陳腐化して使い捨てられるだけです。
— Tadashi Nagasawa@『70年代ロックとアメリカの風景』 (@Sonopapa) 2021年11月20日
本当にSFをそんな使い捨ての道具にしたいんでしょうか。あるいは過去のSF作品はそんなふうに使い捨てられてきたのでしょうか。
SFプロトタイピングって、書かれる作品自体は割とどうでもいいんですよ。
ーー樋口恭介
日本学術会議に対する政府の強制介入に反対する署名ページ
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有害な男らしさって何だろう?
書評 太田啓子「これからの男の子たちへ: 「男らしさ」から自由になるためのレッスン」
本書は「宇崎ちゃん問題」を日本語で紹介しただけで炎上した被害者である太田啓子氏の子育てエッセイ&「有害な男らしさ」論である。
著者は弁護士であり、二人の息子の母親である。フェミニズムが専門では無いが、日常の中で母親として垣間見える息子の言動に対して教え諭したいこと、息子がどうして「有害な男らしさ」に染まってしまうのかといった視点で語られている。
日本国憲法によれば、本来なら権力構造があってはならないのが建前である。しかし、パワハラで自殺が起こったり、セクシャルハラスメントが横行している。
それはなぜだろうか?
ここで言う権力とは、会社や役所などの組織では、円滑な作業を進めるためにピラミッド型の組織を作っている。管理職は部下に適切に仕事を割り振り、結果を評価し、取りまとめるのが役目である。そこでなにゆえに過労死自殺が起こってしまうのか?
要するに一人では処理しきれない作業量を割り振ってしまい、その進捗を管理し切れていないだけの話にすぎない。
それは全部管理者の責任なのだが、会社の上下関係を勘違いすることによって部下を脅かしたり、強制する権利を持っていると思い込んでしまうためだ。
セクシャルハラスメントもどうだろう。男性のほうが力も強く、身体も大きい。そこで実社会においては男性が女性を軽く見ている部分が確かにある。
したがって、痴漢などの犯罪が平気で起きてしまうわけである。酷い例では地下鉄のホームで、監視カメラに写らない場所で強姦事件が起きたという事件もあった。
そんな男性側の女性蔑視はなぜに起こるのだろうか?
それが本書で語られる「有害な男らしさ」である。スクールカーストは成績や運動のできなどに関わりなく、声の大きな人物が支配することになる。
そして閉じたホモソーシャルの中でマウントの取り合いが起こり、負けたら奴隷という運命が待っている。
さらには社会文化の中に間違った性知識が蔓延し、女にモテないのは不公平だという意味のわからない意識が起こる。それは単に自分のせいでしかないのだが、モテれば勝ち、ヤレれば勝ちという単純すぎる思考に洗脳された結果でしか無い。
そこに女性の主体は関係無い。誰であってもモテれば良い、やった数だけが勲章になってしまうのだ。
今では少なくなったが、まだまだ女性を鑑賞物として見る、自分の隣にいさせて勲章にするといった意識が残っているのは事実である。
しかし、実際には何歳で童貞であろうと処女であろうと、個人の問題であるし、勝手な話である。だが、「なんでオレだけがいつまでも……」という意識を発生させてしまうから問題なのである。
私はパートナーをルックスで選んだことは無い。これは誓って言える。自分と違うところがあって、それが魅力的であれば、それで十分に人として尊敬できる。しかし、それは残念ながら少数派らしい。
筆者も、息子達が見ているアニメや学校で覚えてくることに疑問を持ち、熟考し、「有害な男らしさ」から守る教育を続けている。
時に、アンチフェミニストからは目の敵にされ、実際のAmazonレビューも、「どう考えても読んでいないだろ!」という連中による低評価で埋まっている。これが現実なのである。
そんな社会が健全な発展を遂げられるわけがない。いまこそ、社会の中にしみついた「有害な男らしさ」を消し去るべき時ではないのだろうか。
「表現の自由」とは言うが、何からの自由か?
このところ、「表現の自由」という言葉が一人歩きしている。
表現の自由とは、もちろん憲法で保障された権利である。
しかし、「表現の自由」には、憲法解釈上、種類があることは案外と知られていない。
憲法解釈上、「定番」とされている芦部憲法では、この点について、以下のように書かれている。
表現の自由の規制立法は、①検閲・事前抑制、②漠然不明瞭または角に広汎な規制、③表現内容規制、という四つの態様に大別される。
(略)
表現の内容規制とは、ある表現をそれが伝達するメッセージを理由に制限する規制を言う。性表現・名誉毀損表現の規制もこれに属するが、これはアメリカでは通常、営利的言論や憎悪的表現とともに、低い価値の表現と考えられ、政治的表現と区別される。
つまり、公権力による介入からの自由が最も優先されると解釈される。
最もわかりやすい例は、「あいちトリエンナーレ」事件だろう。公的に決められた補助金の給付中止。これは公権力による圧力に他ならない。最も許されない行為だったと言える。
そして政治への不満に対するデモ。これは事前に了解さえ取っていれば公権力に介入される言われはまるでない。国家前でのシュプレヒコールなどは本件に該当する。
そして、表現の内容規制となると、特定の人々に対する嫌がらせ行為、つまりヘイトスピーチや性的に不快な表現が相当する。
これらはやはり、その表現によって名誉を毀損されたり、プライドを傷つけられるといった被害者が存在する場合には、かなり「黒」だと判断せざるを得ない。
表現の自由とは、
公権力からの自由
が最大の優先順位にある。そして、
表現によって被害者が存在する場合
も、他者に対する人権侵害なので、これはあまりやらない方が良い、というか、「するな!」と言い切ってしまっても過言ではない。
人に対する非難でも、相手が公人であるのか、私人であるのかで違う。
「アベシンゾウは木星から来たジュピターゴーストです」
という表現は、公人による決定が大規模な範囲で影響を受けるので、これが許容範囲である。
これが、
「特定民族には特権がある」
という表現になると、事実ではないうえに、自分たちの生活にはまるで関係無いので、ヘイトスピーチであるとされている。
この違いは特に重要である。
特定民族への差別、性的差別は、「表現の自由」の中ではプライオリティの低い事例にはなるのだが、「被害者が存在する」という点で決して軽んじて良い問題ではない。
では、政権に対して異議を唱える行為は一般にどう称するのだろうか? これは「リコール要求」とか、「クレーム」と言う。今では「クレーマー」とも称されるが、その請求に正当な理由があれば、クレームを付ける権利はある。
そして、その「クレーム」を聞き入れるのか、突っぱねるのかは、クレームを付けられた側の判断による。
「あいちトリエンナーレ」では木村愛知県知事が、名古屋市や国からの嫌がらせ行為を突っぱねた。これは正当な行為である。
では、高輪ゲートウェイのAI、渋谷さくらに対するクレームは正当なのだろうか? これは各自の判断によるが、性差別的な扱いであり、システムとしての総合デザインとしてかなりイビツなものであると判断せざるを得ない。
したがって、そのような点に対して抗議する権利は存在する。もし、JRの側が「これで問題ない」と主張するのであれば、突っぱねるのも各企業の判断に任されることになるので、「本当に何の問題もない」と考えているのであれば、変更をする必要は無かったのである。
では、改めて問いたい。宇崎ちゃん、千歌ちゃん、渋谷さくらに対する「クレーム」は数の力に物を言わせた圧力だったのだろうか? 日本赤十字にも、JAにもJRにも、その「クレーム」を拒否する権利はもちろんあったはずである。では、なぜに変えたのか? その理由は?
安倍政権の悪政に対して抗議をしても、政権はまるで聞く耳を持っていない。国会議員は国民による投票で選ばれるので、次の選挙で落選させるという手段も残されている。したがって、国会議員によって職業を続けられるかどうか、その手綱を握られているわけである。
しかし、今のところ行政はそれを聞き入れる気は無い。もちろん、それも「国会議員の勝手」である。
さて、それでは、特定の民族への差別表現に対する抗議、性差別的表現に対する抗議は、極めて不当なものなのだろうか? 不当なのだとすれば、なぜそれを聞き入れる必要があるのか、必要な無いのであれば無視することも可能なのである。
大村愛知県知事の抵抗が賞賛され、性差別的表現に対して抵抗しなかった側が「クレームのよって潰された」というのは二重規範ではないのか?
テレビ放送における田崎四郎の出演や、明らかに偏向しているNHKの岩田明子に対する抗議もかなりの数になっていると思われる。しかし、放送局はその抗議を無視している。その結果として何が起こってもかまわないと放送局が判断しているからである。「抗議を聞く、聞かない」は抗議された側の判断によるものである。これだけははっきりさせておきたい。
抗議が圧力になるかどうか、それは知らない。ただ、抗議するのは各自の判断でしか無く、抗議をした人を非難するのは明らかに筋が違う。
最近、特に強くそう思う。
「あいつら」って誰ですか?
最近の所感をまとめました。
noteで公開しました。
評価は保留ということで
私が「三体」への意見を保留している訳。
たとえば、「円」でも疑問を抱いたのだが、人でロジックゲートを実現するのは可能なのだが、πの公式をどう導出したのか? アルゴリズムとプログラム部分はどうなっているのか? レジスタやメモリをどう人間で処理しているのか? まるで書かれていなかった。
確かにアイデアは面白いが、「それ、不完全すぎるんちゃう?」という感想は消えない。
全体の話は良い。そちらで評価するのなら、確かに最高に面白い。
だけど、どうも説得力が足りない。半端に現状の科学に近いので疑問符がたくさん出てきてしまうのだ。
そのあたりの姿勢が話としてどうよ?という事になるのだが、それは三部作全部を読んでから判断することにした。だから、「三体」を単体で評価するのは保留にさせてもらいたい。
実際、英訳版「The Three-Body Problem」の段階で読んだんだけど、その時に感想を何も書かなかったのは、その時にも同じ事を考えたから。
日本語訳できちんと読んでからにしようと思ったんだけど、やはり同じ状況になった。
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